チベットの事。
長らく、自分の中でだけ考えて来た。けれど、その決着は、今の僕には到底出来ない。
公的ではない僕のPCの中のメールの中では、頻繁に激論が交わされている。
この事実は、今に始まった事ではない。
あまり上って来なかっただけ。
また、各々の個人的感情が入り混ざったり、世間の目を気にしてか、口に出さなくなっている事もあると思う。
例えば、1年前の自分はこうだ。
「チベットの問題は、知っているし、彼ら独特の世界の物語の絵本も、手にしている。
それは、何故だか公的には、購入出来ないものだ。
一方で、中国から、個人的に職業としていろんな恩恵を受けている。
この事を自分は恥ずべき事もなく、むしろ感謝の気持ちでいっぱいだ。」
見えないのは、僕を応援していてくれている彼らが、お互いにどう感じているのか、さっぱり分からない。(それが、どうこうすべき事でもないが)
事実として感じる事は、自分を恥じる事。
なんだ、かんだ言っても、対峙せず逃げている自分を知っている。
9.11の時、イラクの時。
頭で分かっていても、あきらかに顕著な行動で態度を表した事はない。
codeの活動のひとつに、5年程前、アフガニスタンの被害者の死亡数と多国籍軍の数を人型で編んでもらい、我々のデザインで、アフガニスタンの手と技術で、その等価を支払った、一畳強の絨毯。
しかし、情報は日々変わり、出どころでの数字も違い、出来上がった時には、まったく、意味をなさないかのような数だった。
不毛だ。
このように、ほんのすこしだけ携わった活動だけでは、現状は何も変わっていないし、何もしていない事と一緒と思う。
安全な場所で少しだけ携わり、自分を正当化しているだけだ。
自分では、想像力を働かせて思っているのだけれど、
人間としての本当の想像力が、欠けているのだと思う。
分かりやすく言えば、自分の子供がそこにいた時と、同じ行動をしているかどうかですぐに判断出来る。
自分の子供が目の前で傷つき、のどを乾かし、でも手を差し伸べない自分。
それが、今の自分のリアルだ。
また、同じように、現実の自分が、本来の事を全うしているかと言う事も疑問だ。
それで、幸福なのだろうか?
(もっと言えば、幸福であろうと、なかろうと関係ないとさえ思う。)
チベット問題。
デザインは、また、安全なところでメガフォンを取るのだろうか?
