コミュニケーションに思う事。
僕は、コミュニケーションの仕事をしている。
数は、大きいとは言えないかもしれないが、(マスコミ)マス・コミュニケーションの一員である事は間違いない。
いろいろ、疑いは持ちつつも、その当事者である。
一方、小さなコミュニケーションの事も知っている。
マスコミが一つから、大多数へ向けているいるのに、対して、全く逆な、太く強い糸のようなもので結ばれている。
分かりやすく言えば、それは、アートであり、所有するにもエディションがあり、小さな声でも大きく伝わると思っている。
POP ART以降、この図式は崩れ去ったという話は聞くが、そんな事は全然ない。
なんだかんだ言っても、その当事者のウォーホールの複製可能と言われていた、シルクスクリーンの作品の価格を見れば、証明されているから。
僕が、18だった頃、15万円だったそれは、彼が亡くなった以降、本人の思惑と反比例するように(もっといえば、比例するように)、今や恐るべき価格になっている。
僕は、思う。
同じ複製可能で、実は同じものは(出力でさえ)全く出来ない。
写真の事を思う。
創作者とは、関係なく、勝手に評価され、望まれ数値化されてしまう。
でも、一方で、それは健全な姿とも思う。
なぜなら、ウォーホールと同じく、文学(本の複製)と比較すると、全く相似形をなすからだ。
しかし、どっちにしろ、写真は個人的なもので、見る側からすれば、無防備に想像を巡らせるだけしかできなく、実感は想像上のものでしかなく、真には共有出来ないものだ。
しかしながら、ただ、本を見るだけで、共有したいと強く思う。
まったくもって、自分はおかしいと思う。
ファン意識と言えば、一番分かりやすい衝動なんだと思う。
コトバも分からず、うっとりと熱狂的になる、あの音楽と同じ世界。
最低限であるはずのコトバも分からないくせにと言われても、そんなのどうでもいい!
突き動かされている事実は、明白なのだから。
あまりに好きすぎて信用できないと言われる程、いろんな写真が好きだけれど、同じように、多数の音楽が好きと言う事が多数をしめるように、同じ事なのです。
結果、いつも、ラブレターを書いているような、一方通行な自分に出くわすのです。
でも、今日は、応援の言葉で相思相愛(勝手に思います)を確認出来たのが嬉しすぎます。
いつも、心の片隅で思いつつも、自分の心遣りすくなさや、僕の正体のある部分のずるさに、どぎまぎしています。
(一点の曇りもなく、あの方に、幸せだけが降り注ぎますようにと願っています。)
大感謝しています!!!
これこそが、コミュニケーションなのだろうと信じます。
写真を通じての。